のんと「さかなのこ」

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さかなクンの自伝をのんの主演で映画化し、沖田修一が監督をする。このニュースを聞いて、これは面白そうだ、と思ったのは私だけではないと思います。テレビ等を通じて知るさかなクンの強烈なピュアネスは沖田修一監督が「横道世之介(2013年)」をはじめとして描いてきた、世間の物差しからは外れているけれど周囲の人たちから愛される人物像に重なりますし、芸能界の紆余曲折を経て独自の活動を貫くのんは、これを演じるに相応しい存在です。

果たして、「さかなのこ」はまさしく沖田修一的な、不器用ながら他人から支えられ、いつの間にか他人に幸福感を与える稀有な人物を描いており、まさに「横道世之介」の系譜に連なる作品になりました。

まず、これがさかなクンの物語だと思って観ていると、当のさかなクンが途中で登場し、そうではないことに気づかされます。主人公はさかなクンの分身であるミー坊(のん)。ミー坊は大の魚好きで、魚のことを考え、魚の絵を書いていれば幸せです。だけど、それ以外のことは出来ません。ミー坊は子供の「好き」という気持ちを尊重する母親(井川遥)に守られ、やがて成長し、魚の知識や絵で世間に認められていく。一方、本物のさかなクンが演じる「ギョギョおじさん」は、ミー坊と同じく純粋な魚好きでありながら、そのピュアネスが周囲に理解されることなく、不審者として警察に連行され、やがては漁港で漁師たちとミー坊の活躍をテレビで眺めるしかない「外れ者」として描かれています。周囲の人たちに励まされ世間に認められるミー坊が「さかなクン」であり、本物のさかなクンの演じる寂しい「ギョギョおじさん」は周囲の理解がなかったらこうであったかもしれない「もうひとりのさかなクン」なのです。メタ構造ということになるのでしょうが、巧みな物語です。

「さかなのこ」には離婚したのであろう両親の姿や、ミー坊を侮蔑の眼で見る悪意も暗示的に描かれており、優しいだけでは無い人生の影も見え隠れしています。「好き」という気持ちを貫くことは、ギョギョおじさんのように寂しい道を辿る危険性も孕んでいる。それでも、ミー坊と母親を通して伝えられる「好きなものを好きだと言えるあなたは素晴らしい。あなたはそのままでいいんだ」というメッセージは、今後も多くの人たちの心を照らすのではないでしょうか。

のんが素晴らしい。誰もがテレビで見慣れたハコフグ帽子、ギョギョおじさんが子供時代のミー坊に手渡したその帽子が、風にさらわれて道端に転がる。それを拾い上げる、高校生に成長したミー坊を演じる、のん。ハコフグ帽子が時を越えて空間を繋ぐ、とても映画的なショットです。作品のオープニングで「男でも女でもどっちでもいい」と宣言される通り、のんは長髪をなびかせ学ラン姿で長靴を履いて釣竿を掲げます。まさに性差を軽々と超えた素晴らしく「画になる」存在であり、スクリーンの中で強烈な光を放ちます。

男でも女でもどっちでもいい。それでは、どっちでも良くないことは何か。それは自分の「好き」という気持ちを偽ることである。「あまちゃん」での鮮烈なデビューから9年経ち、紆余曲折を経て「あまちゃん」のアキのようにもう一度堤防から海に飛び込むのんの姿に、胸が熱くなります。

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