河合優実と「ナミビアの砂漠」

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山中瑤子監督の新作「ナミビアの砂漠」を観ました。山中瑤子監督は、そのデビュー作「あみこ(17年)」で注目された監督です。当時、評判を聞いて私も映画館に駆け付けましたが、おおむねテクニックは粗いが感覚は鋭いといった批評が多く、私の印象もそれ以上でも以下でもありませんでした。今作も河合優実を主演に迎え、破天荒な主人公を描いていると聞いて、あまり前作と変わらないのではないか、と思いながら鑑賞しました。しかし、その思い込みは気持ちよく裏切られることになります。

映画は、東京近郊(町田)を闊歩するカナ(河合優実)の姿を捉えたショットから始まります。カナは友人から、昔の同級生が自殺したと聞いても上の空で、まるで関心なし。落ち込んでいる友人をホストクラブに誘っておいて、さっさと自分だけ店を出て恋人のハヤシ(金子大地)に会いに行きます。帰る先はまた違う恋人のホンダ(寛一郎)と住む部屋。それからは何も言わずにホンダの家を出て、ハヤシとの新しい同棲生活を始め、鼻ピアスを開けるなど自由奔放な様子が描かれます。しかし一方で、勤め先の脱毛サロンでは真面目に働いているようですし、ハヤシの両親の前では内気で大人しい一面を見せ、タイピシャルな奔放な女性像とは異なる人物造形に目を見張ります。今作のような抑圧された内面を持った女性が主人公の映画だと、大抵は職場や仲間社会でネガティブな感情を爆発させるシーンが描かれるものですが、カナは外では至って大人しく、ホンダやハヤシに対してのみ、その暴力性を覗かせます。

自由に振舞っているようでいて、次第に自分自身のルールのようなものに追い詰められて精神が危うくなるカナの様は、「こわれゆく女(74年)」や「ラヴ・ストリームス(84年)」などのジョン・カサヴェテスの作品群を思わせます。一人の女性の「生」を、キャメラを通してビビッドに描き出す点にもその共通点が感じさせます。(そう思った鑑賞後に、山中瑤子のインタビューを読むとまさに今回、撮影に入る前にカサヴェテスをよく観ていたという発言があり、大いに納得しました。)

そして演出の巧みさにも驚かされます。階段を落ちたカナが次のカットでは車椅子を押すハヤシのクローズアップに繋がる編集など実に見事で、デビュー作のように単にセンスのある作家、というレベルを遥かに超えています。終盤のちょっとシュールな展開も、映画的なジャンプとして独りよがりにならずに上手くまとめています。デビュー時の、粗っぽいけどセンスのある作家という評はもう山中瑤子には当たらない。実に力強い「演出の作家」の誕生です。

主演は河合優実。2024年は、河合優実の年であることに、誰も異論はないでしょう。「あんのこと(24年)」と今作でその地位を確かなものにしています。わがままでウソつきで暴力的で壊れやすい。「今」を生きるこういう女性を魅力的に演じることができる女優は、そうそういるものではない。そして、いわゆる「女性映画」と分類されるかもしれない今作で、更に特筆するべきは寛一郎と金子大地の存在です。カナが自分のルールを測る物差しとして、自分から逃れるための鏡としての男性像を繊細に演じており、見事です。そして、その姿には、ジーナ・ローランズを献身的に見守るカサヴェテスやピーター・フォークの姿が重なるのです。

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