唐田えりかと「寝ても覚めても」

前略 唐田えりか 様

例えば朝子(唐田えりか)と亮平(東出昌大)が非常階段でかわすキスシーン。身長差のある亮平が、二つ三つ階段を降りて視線を合わせる。例えばイプセンの舞台に突然訪れる闇。静寂と悲鳴。例えば朝子と亮平が傘を投げ出し、どこまでも川辺を走る亮平を朝子が追うロングショット。朝子の白いシャツが小さく輝きながら遠ざかり、雨を降らせていた雲の切れ間から見える日差しが、川辺にくっきりと雲の影を作る。息が止まるほどの、眩暈がするほどの緊張感に満ちた素晴らしいショットの連続に、自分は今物凄い映画を観ているのだという興奮を抑えきれません。現実の感覚としてはあり得ないと感じてもおかしくはない物語なのに、映画であるとはこういうことだ、としか言いようのない至極自然な展開が連鎖しており、この映画が映画の言語により物語世界を完成させていることに只々感嘆しました。

勿論見事なショットだけではなく、俳優たちの演技にも眼を見張るものがあります。濱口監督は撮影の数か月前から台詞を感情を込めずに棒読みさせるワークショップを行い、本番で初めて演技をさせるということですが、その為でしょうか俳優は「自然な演技」というよりも、「映画の中で生きている」としか言いようのない存在となっています。私は東出昌大のことを過小評価していたと言わざるを得ませんし、伊藤沙莉も山下リオも素晴らしい。この映画で、朝子の性格や思考を何かの典型として理解することは難しい。実際の人間が捉えどころのない不思議さに満ちているのと同様、朝子という存在もまた何を思考し何を行動するのかわからず、それは唐田えりか、あなたという女優がこの映画の中で生まれ、成長していく過程を観るのと極めて近似ではないかと思われるのです。そのような生々しさがこの作品を一層先の読めない魅力的なものにしています。

 

~以下、ネタバレを含みます。

 

この映画の苛烈極まりない愛の軌跡に、それでは誰かが悪かったのか、と思いを巡らせます。亮平が、麦と似ていたことが悪かったのか?そんなはずはありません。それでは麦が朝子の前から消えてしまったことが悪かったのか?彼は時間がかかったとはいえ、ちゃんと朝子の元に約束通り戻ってきたではありませんか。では朝子が悪いのか。一度は亮平から離れようとしたのに、震災がもう一度二人を近づけてしまった。献身的な亮平を捨て麦の元に戻る朝子を責めることが出来るでしょうか。朝子は、亮平が麦と似ていることを正直に話しましたし、ずっと麦を愛していたのです。そしてもう一度亮平の元に帰るのは、同時に亮平も愛していたからです。誰が朝子を責めることが出来るでしょうか。

誰かを愛することは別の誰かを愛することと同じ。汚い川はきれいな川と同じ。寝ていることは覚めていることと同じ。この映画は愛の不思議、人間の不思議を、あなたという女優の存在を通して私たち観客に語り掛けるのです。

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