チョン・ジョンソと「バーニング 劇場版」

前略 チョン・ジョンソ 様

イ・チャンドン監督の「バーニング」は観るものに不穏さを感じさせずにはいられない作品です。村上春樹の初期の短編小説を原作にした今作は、韓国に舞台を置き換えながら、現代に生きることの抑圧をとてもリアルに、ある質感や重量を伴って描いています。村上春樹の作品世界は80年代から今日に至るまで、現実のもろさ、いつ足元から崩れ去ってもおかしくない不安定さを描いておりそれは現代日本人の無意識の心象風景と言って良いと思いますが、この映画でそれが日本だけのものではなく、世界のどこでも感じられる不安でありとても切実なテーマであることが突き付けられ、村上春樹の現代性といったものに改めて気付かされます。

物語は作家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)が幼馴染みのシン・ヘミ(チョン・ジョンソ)に偶然出会うところから始まります。二人は親しくなるものの、ヘミは若く落ち着いて金回りの良いスノッブな青年ベン(スティーヴン・ユアン)と親しくなり、心ならずもジョンスは二人に振り回されるようになる。やがてヘミは忽然と姿を消し・・。

これがデビューとなるチョン・ジョンソが演じるヘミは作品の核とも言うべき存在です。同時に、その不在こそが物語の核心です。冒頭、パントマイムを習っているという彼女が、マイムでみかんを剥いて食べる演技をします。上手いね、と言うジョンスにヘミは「コツは、みかんが有ると思い込むことではなく、無い、ということを忘れることだ」と言います。この台詞に象徴される存在と不在の境界線が、映画が進むにつれて次第に無視しがたくクローズアップされて行きます。ヘミが飼っているという猫は姿を見せない。ジョンスに掛かってくる電話は無言のまま。ジョンスが住む村のすぐそばには北朝鮮が在るが勿論行くことは出来ない。ヘミが幼少期に誤って落ちた、という井戸は本当にあったのか。ヘミは旅行で行ったアフリカの夕暮れを想い、あのように存在を消してしまいたいと願う。やがて、ヘミ自身が理由もなく姿を消す。勿論、ジョンスはヘミが「いないことを忘れることは出来ない」。一方、ベンとの関わりの中で、見えるはずの無い生活水準格差や、生きる意味への渇望(グレートハンガー)は、確実に「存在する」。

~以下、ネタバレを含みます

私は、この作品を映画館で鑑賞した後に、録画してあったNHKのテレビ版を観ました。そして、その内容に驚愕しました。150分の映画版と100分のテレビ版は、殆ど同じ内容ながら、全く違うテーマの作品となっていたのです。映画版では描かれていた、ヘミはベンに殺されたと確信したジョンスが、ベンを殺害する極めて重要なシーンが消えているのです。存在と不在。テレビ版にそのシーンが無いことで、ヘミが殺されたこと、ベンを殺したこと自体がジョンスの妄想、もしくは創作である可能性が示唆されています。映画版は、テレビ版のラストカットでパソコンに向かって小説を執筆するジョンスによる、チャプター2かも知れない。ある世界ではヘミは自ら姿を消し、ジョンスとベンの日常は続く。ある世界ではヘミとベンは殺されている。映画版にはあってテレビ版には無いシークエンス。この違い自体が、存在と不在というこの作品のテーマを表しており、映画版とテレビ版が揃って初めて完結するのです。

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