レーネ=セシリア・スパルロクと「サーミの血」

前略 レーネ=セシリア・スパルロク 様

映画は世界の窓、という役割もあって、映画によって海外の未知の社会の実態を初めて知るということがあります。今作もまさにそうで、北欧でトナカイを飼って暮らすサーミ人と呼ばれる民族がいること、更にスウェーデンにおいて彼らが知能の劣る民族として差別されていたことを私はこの作品で初めて知りました。作品は、30年代の、甘んじて差別を受けるサーミ人たちの暮らし、普通の生活を望み家を出る主人公である少女、長い時間を経て、彼女が妹の葬儀の為帰還する姿を描いています。

主人公を演ずるあなたや妹、数十年後のあなたの老婆姿を演じた人物は皆実際のサーミ人、付け加えるならアマンダ・シェーネル監督自身もサーミ人の血が流れているとのことで、我々日本の観客には計り知れない決意を持って作られた作品だと思います。映画の中で手足の長い西洋人を見慣れた目には、あなたの小柄な体つきは大きな説得力を持っていました。家を捨て、出自を偽り学校に潜り込んだあなたが、明らかに体躯の違う女の子たちに囲まれて体操をする、何とも言えず切なくなるシーンがあります。

この作品のユニークな点は、虐げられた主人公であるあなたが、民族的な誇りと覚悟を持って差別を跳ね除けるというストーリーにならず、民族衣装は着たくない、男の子とデートがしたい、タバコを吸いたい、と、非常に個人的な欲求に突き動かされて行動している点です。映画を観ていて困ってしまったのは、あなたが夏祭りであった都会の男の子を訪ねていき、男の子が不在にもかかわらずその家に転がり込んで、男の子の両親を困惑させる場面です。正直言って、私の心はあなたサイドにはなく、身勝手な行動をするあなたに困惑する両親の方に同情してしまいました。

民族を代表して差別と闘う、とはならず、民族衣装を脱ぎ捨て、民族歌謡「ヨイク」を否定し、名前を西洋風に偽り、故郷を捨てることで自由を得ようとする姿、ひいてはその晩年にあっても親族と和解できず自分の出自を切り捨てようとする姿は、作品としては決してのどごしの良いものではありません。闘う姿は絵になるけど、逃げる姿は絵にならないのです。それでも、一人の少女が耐え難い差別をしのぐには、きっと逃げ出すよりほかに方法はなかったのだろうと思います。そのことを思うときに、差別という問題に対して個人が出来ることには限界があるという現実や、そのことを責めることなど誰にも出来ないのだという思いにとらわれます。レーネ=セシリア・スパルロクという稀有な女優が身をもって示したこの生涯をかけての逃走の果てに、彼女が妹の亡骸に対して口にする「私を許してほしい」という言葉は余りにも悲しく、心に残ります。

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