エリザベス・オルセンと「ウインド・リバー」

前略 エリザベス・オルセン 様

「ウインド・リバー」は極めて多義的で、何度も反芻したくなる魅力的な作品です。一旦、この作品をサスペンス映画と呼ぶことも出来るでしょうし、極めて刺激的なアクション映画と呼ぶことも出来そうですが、それ以外にも観客の心を揺さぶる要素があります。

物語は、一人の少女が夜の雪原をひた走るシーンから始まります。その少女ナタリーは翌日死体で発見されることになり、発見者は主人公であるジェレミー・レナー演じるハンターのコリーです。舞台は、ネイティブ・アメリカンが白人に追いやられた極北のワイオミング。ナタリーはネイティブ・アメリカンであり、コリーは白人ではあるものの、ネイティブ・アメリカンと結婚し子供をもうけ、この地で暮らしています。そして、この殺人事件の捜査の為呼び寄せられたFBI捜査官として、エリザベス・オルセン演じる白人女性のジェーンが登場します。

あなたは、殆ど殺人事件の捜査が未経験のようで、厳寒のワイオミングという地さえ初めてのようです。そんな薄着で雪原の殺人現場でさえも行けるものかと罵られ、それでもあなたは職業意識に従順に、少しづつ捜査を進め、現地を良く知る者としてハンターのコリーに協力を仰ぎます。

この作品の根底には、アメリカ開拓史の犠牲者であり、かつ現代では透明人間のように無視され続けているネイティブ・アメリカンという存在があります。あなたが無意識のうちに、明らかにネイティブ・アメリカンに見えないコリーに協力を求めるのも、そのような背景があるのかも知れません。あなたは、悪気はなくとも無神経にナタリーの父親の、ネイティブ・アメリカンであるマーティンに監督不行き届きでは無かったか、と責めることになります。

この映画の中心は、勿論、自分の娘も同様に殺害された過去を持つコリーの物語です。卓越した腕前を持つハンターというプロフェッショナルでありながら、ナタリー同様、無残に殺された娘の死の責任を負い続ける男。この作品に西部劇の残響を聴くのは容易です。自分にも他人にも厳しい生き方、プロとしての矜持、アマチュアへの指導と、準備不足が死に至ることの警鐘。40代の頃のクリント・イーストウッドが演じても全く違和感の無いキャラクターです。(もっとも、イーストウッドであれば涙を見せるシーンは無いでしょうが。)ジェレミー・レナーが完璧に演じるこの主人公は、娘を殺され、そしてまたもや無残に殺されてしまったナタリーの死を悼み、社会から黙殺され続けるネイティブ・アメリカンに寄り添い続けようとします。

あなたは、ワイオミングの「ウインド・リバー」で何が起こっているのかを観客に代わって目撃する「眼」です。あなたの、とても印象的な、大きく見開かれた灰色の瞳が観客を未だ見ぬ極寒の地へナビゲートします。犠牲者の少女の無念を晴らす決意をしているコリーと、職業を全うすることを優先し、時には遺族の感情さえ無視してきたジェーンの物語は、最後に交錯します。極めて過酷なガンファイトを潜り抜けたあなたは、あなたのグレイの瞳は、職業意識を越え、かけがえのない命が奪われた少女の無念さに最後の最後に思い至ります。「少女は本当に、10キロも裸足で雪原を走ったのね」と、コリーに語り掛け、その少女の肉体の限界に思い至ったとき、あなたは嗚咽し、あなたの灰色の瞳はただただ涙を流します。他者の痛みを”本当に”知ること。この作品が絶えず観客に問い続けるのは、そのことの困難さなのかも知れません。

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