和田光沙と「岬の兄妹」
前略 和田光沙 様
映画というジャンルは時折その凶暴な素顔を観客に晒すときがあり、練られた脚本や整った美術、巧みな演技者や撮影に慣れきった私たちの横っ面を引っ叩くような作品が現れます。その多くはインディーズから生まれ、今映画が生まれたとでも言わんばかりの高揚感で撮られた作品は、単なる無知から来る作品と、明らかな才能によるものに大別される。この「岬の兄妹」の監督、片山慎三氏はポン・ジュノ監督や山下敦弘監督のもとで助監督として経験を積んだそうですから経験の無い新人監督とは言えませんが、インディーズという比較的制約から自由な映画作りという環境を存分に生かし、随所に才能の煌めきを感じさせる作品です。
作品はタイトルの通り、ある岬に住む兄妹の物語です。冒頭、足を引き摺る青年良夫(松浦祐也)が、同居する妹の真理子(和田光沙)の行方を探して海岸沿いを奔走する姿から始まります。松浦祐也の焦燥感溢れる演技がドキュメンタリー的な生々しさを生んでいるのと同時に、海辺の風景を審美的に捉えたキャメラが目を引きます。その後、真理子が精神薄弱であることが示され、この障がい者と精神薄弱者の兄妹が貧困に喘ぐ姿、失業した兄が妹に売春をさせる姿が描かれていきます。
社会的弱者の姿と、空腹を前にしてのモラル無き世界観は一種文学的な問いを発しているとも言えますが、映画はあくまでも兄妹二人の姿を、売春の客達も交え、寓話的に、時にはユーモアも交え描いていきます。何かに必死になっている者は端から見れば滑稽さを伴うという残酷な定理もありますが、なりふり構わず金の工面に奔走する良夫の姿と、微塵も悲愴感を感じさせない精神薄弱の真理子の天真爛漫な姿との対比が、また可笑しみと物悲しさを醸し出しています。
主演の松浦祐也も和田光沙も映画出演は豊富ながら知名度や主演としての顔という意味では馴染みが薄く、それがこの作品に既存の映画には無いユニークさを加えています。この二人については、こんな凄い役者がいたのか、という衝撃を観客に与えずにはおかないでしょう。作品の成功の多くは二人のキャスティングに負うところが大きいと思いますし、この悲劇的で喜劇的な兄妹の姿に神話的な普遍性さえ与えています。特に真理子を演じきった和田光沙は精神薄弱者の行動にリアリティを与え、本能のままに売春を通じて新しい人生の歓びを見出だす姿には、田中登監督の「㊙色情めす市場」(74年)で売春婦を演じる芹明香が見せたドブの中のマリアとも言うべき慈悲と聖性をも感じさせます。
真理子が客である小人症の青年(中村祐太郎)と引かれ合うエピソードはこの映画で最も胸を打ちます。二人がベランダで語り合い抱擁するシーンは詩的な美しさに満ち、良夫が青年に妊娠した真理子との結婚を哀願し「僕なら断らないと思ったのか」と青年に拒絶されるシーンでは静かだけれど苛烈な感情が渦巻き、この映画の白眉と言えます。その後、青年に会いに来た真理子が良夫に止められ、路上で大の字になり泣き叫ぶシーンの痛切さに観客は息を飲みます。
この世界に二人っきり、という物語世界は恋愛映画の行き着く果てですが、この作品もまた岬に住む孤独な兄妹の二人っきりの物語です。このまま、孤独な世界が永遠に続くのか?今もあの岬の貧しい家には障がいを持つ良夫と精神薄弱の真理子が暮らしているのか?それとも、最後に良夫に掛かってきた電話は、二人っきりの世界の終わりを意味しているのか?そのような問いを観客に投げ掛け、良夫が岸壁に佇む真理子を見つめるショットで映画は終わりを告げます。