堀未央奈と「ホットギミック ガールミーツボーイ」
前略 堀未央奈 様
「おとぎ話みたい(14年)」「5つ数えれば君の夢(14年)」で映画ファンに独自のスタイルを印象付けた山戸結希監督。本格的な商業映画となった「溺れるナイフ(16年)」でも土着的な風土の中に小松菜奈と菅田将暉を配し、ユニークな青春劇を見せてくれましたが、この「ホットギミック ガールミーツボーイ」を観てしまうと「溺れるナイフ」では自分のやりたいことをかなりセーブしていたのではないか、と思わせます。この作品はそれほど決定的な一本であり、山戸結希の作家性が遺憾なく発揮され、真に世に認知される作と言えるのではないでしょうか。勿論、少女の内面をテーマとして技巧的な映像を駆使するスタイルは過去作から一貫していますが、彼女がプロデュースを努めたオムニバス作品「21世紀の女の子(18年)」の中の一本「離ればなれの花々へ」では「新しい映画は女の子が作る(女の子にしか作れない)」というマニフェストと共にスタイルは先鋭化・純化されていたのであり、その実践として「ホットギミック」が撮られたと考えられます。
山戸結希の映画は、10代の女性という、性であれ憧憬(アイドル)であれ、容易に他者の眼差しや商業化の餌食となる存在に対して、彼女達のいわゆる「内面」をラジカルに空疎化することで他者には不可侵な存在として再組織化する試みです。女の子はそんなに他律的でも弱くもないという文脈ではなく、女の子の弱さを認め、増幅させ、暴走させることで映画に独自のエモーションを与える。その刹那から何を読み取るのか、観客を冒険に誘う試みです。
映画は、女子高校生である成田初(堀未央奈)を主人公として、同じ団地に住む橘亮輝(清水尋也)、小田切梓(板垣瑞生)、兄の成田凌(間宮祥太朗)の三人との間で繰り広げられる感情のドラマです。初は自分に自信が持てない上に、亮輝には弱味を握られ「奴隷」扱いされ、梓には弄ばれ、凌からは近親相姦的な愛情を注がれる。映画は初が(多くの10代の女の子がそうであるように)他者の眼差しにさらされ、自己の内面を探求する物語です。私はアイドルグループの知識に乏しいため堀未央奈というタレントを今作で初めて知りましたが、時代にジャストなルックス(絶妙な衣装プランの力も大きい)で、少女の頼りなさ、亮輝の言う「意志の無さ」を上手く体現しているように思います。
初と亮輝の不器用な恋愛がこの作品の中心です。亮輝の高圧的な態度は女性への恐れの裏返しであり、その幼さ故に女性を所有の対象としか見ることが出来ず、「奴隷」や「お前は俺のものだ」「誰にも渡したくない」といった言動に現れます。一方で初もまた自分が何者であるのかを知らず、自分の肉体が自分のものである実体がつかめぬまま、「セックスをすれば私はあなたのものになるの?」と無防備に亮輝に問い掛けることになります。
映画のクライマックスは終盤、東京湾を臨む夜の公園で初と亮輝が過剰な言葉を連ね、互いの存在を認め合う姿をスペクタクルなキャメラで捉えたシーンです。男女関係を支配や所有でしか捉えられない幼さから成長し、新しい感情が生まれる感動的な場面です。少女は言います。私には意志は無く、私の内面は空疎である。しかし、貴方がいれば内面如何に関わらず世界は私と貴方で満たされる。私は貴方を所有せず、貴方も私を所有することはないが、この充足感があれば、今、この時、世界は私たちのものだ。この映画は、少女の世界に対する勝利宣言なのです。