チェ・ジョンウンと「夏時間」
韓国の新人映画作家ユン・ダンビによる「夏時間」は、祖父の家で過ごす一夏の経験を少女の視点で描く、どこか懐かしい映画です。
離婚した父親に引き取られた少女オクジュ(チェ・ジョンウン)と弟のドンジュは父と共に祖父が一人住む大きな家に引っ越します。新しい環境に馴染めずにいるオクジュと、はしゃぐ幼いドンジュ。健康の優れない祖父のもとに、叔母もやってきて一緒に暮らし始めます。韓国の郊外を舞台に、自分と弟を捨てた母親への複雑な思い、父親と弟への反感、奥手なボーイフレンドのもどかしさ、やがて湧き上がる物言わぬ祖父へのシンパシーなど、少女の感情の揺れが丁寧に描かれて行きます。
この映画のもう一人の主人公と言えるのは、物語の舞台となる祖父の住む古くて大きな家です。野菜なら何でも採れそうな小さな庭の畑は一種ユートピア的ですし、同じ韓国映画の「パラサイト」とはまた違った雰囲気ながらリビング全体が見渡せる大きな窓が印象的です。実在する家をそのままロケ地として使ったようですが、長らく使用していない実家のルームランナーにスラックスが引っ掛けられている、リノリウムの床を裸足でぺたぺたと行き来する、というような細部のリアリティがこの映画をより豊かなものにしています。
この映画のノスタルジックなルックはとても完成度が高く、近過去のアジア圏の原風景のようなものを思わせます。映画を観始める時点では、この映画は80年代あたりを舞台にしているのかと思いますが、オクジュたちがスマートフォンを利用しているので、やがてこれが現在の物語だとわかります。小津安二郎や侯孝賢、楊徳昌を引き合いに出す映画評もあるようですが、子供の演出は是枝裕和監督を思わせますし、冒頭の引越しシーンには宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を思い出す観客も多いのではないでしょうか。
そのような魅力的な点は多くありながらも、私はこの映画に物足りなさを覚えたのも事実です。そこには、この映画の核のようなものまでもが過去に留まったままで、現代にアップデート出来ていないように思えるからです。
この映画が多くの映画を思い起こさせ、汎アジア的ノスタルジアを誘うのは、夕景を中心とした画面や舞台となる祖父の大きな家のリアルな生活感だけではありません。両親の離婚、祖父の死、長男の相続という家族の問題に、典型的なアジア的家族の「家」の姿が見て取れます。そして誰にも相談出来ずに思い悩むオクジュの姿には、家制度の中に閉じ込められた保守的なアジアの女性像を感じずにはいられません。
祖父の死や久しぶりに対面した母親に感情が湧き出たオクジュは涙にくれます。オクジュの秘めた感情、特に母親への思いは成就されることがありません。結局、この夏の経験を通してオクジュに何か変化はあったのでしょうか。彼女は未だ、内気で物言わぬ少女のままで収まっているように思えます。
少年少女を主人公にした物語では、映画の終わりにはどこか成長していてほしいと思うし、たとえ郷愁を誘う演出がなされていたとしても、現代の映画はやはり現代を生きる観客に訴えるものを示してほしいと、私は思います。チェ・ジョンウンの不器用ながら真摯な演技が胸に迫るだけに、尚更そう思うのです。