日常の中の色香 初音映莉子と「月と雷」

前略 初音映莉子 様

疑似的家族の物語は創作の定番モチーフとでも言うべきもので、映画でも過去数多く描かれてきました。ヴィスコンティの「家族の肖像」、イーストウッドの「グラン・トリノ」他諸作、宮崎駿の「ハウルの動く城」だってそうですし、ジョン・カサヴェテスの一連の作品は映画製作自体が疑似家族を扱っているともいえます。最近でもすぐにジェームズ・マンゴールドの「ローガン」、マイク・ミルズの「20センチュリーウーマン」やバリー・ジェンキンスの「ムーンライト」、中野量太の「湯を沸かすほどの熱い愛」、三島有紀子の「幼な子われらに生まれ」等、幾らでも思い浮かびます。

今作もあなたの演じる泰子という女性と、子供のころ父親の元に転がり込んで、自分の母親を追い出した、草刈民代演じる女性(直子)と高良健吾演じるその息子(智)、藤井武美演じる、父親が違う妹(亜里砂)との唐突な出会いが疑似的家族の共同生活となり、「本当の家族とは何か」なるこれもまた定番のテーマを描いていきます。

私はあなたを何度かスクリーンで(「ノルウェイの森」「終戦のエンペラー」)観ているはずですが、残念ながら記憶にありません。この作品を観始めても、あなたの容貌に印象に残るところが少なく、これは最後まで主人公たるあなたに関心を払い続けられるのかと疑問に思ったものでした。

ところが、今作を観続けているうちに、あなたの稀に見る色気というものに引き付けられていきます。あなたはこの作品で高良健吾との性交場面を演じているのですが、そのこととは関係ありません。あなたの色気は、例えば特段容貌が際立っているわけでも、入念に化粧をしているわけでもない職場の同僚女性に、ふとしたはずみで感じるような類のものです。あなたがスーパーのレジ係をしているのも実に象徴的で、そのような日常の中で感じる女性の性的な色香があなたからは匂ってくるのです。あなたが、後半はほぼ、つわりに苦しみ常にえづいているのも無関係では無いかもしれません。キャリアのある女優にしては、良い意味でみずみずしさ、ぎこちなさを失わないあなたの演技が、ステレオタイプな女性像を脱し、生々しい「女性性」とでも言うべきものを体現しているようです。今作の開始早々、あなたの印象が薄いというような感想を持ったことに対し、終盤では己の不明を恥じることになります。

この作品は1シーン1カットという程でもないにせよ、長回しを多用し、シンプルで手数の少ない作品という印象を持ちます。寡黙ながらやがて立ち上がってくるメッセージを、終盤あなたが演じる泰子は、草刈民代演じる直子に言うことになります。「あなたは、父親を愛していたから私たちの家庭に入り込み、母親を追い出したのではないのか」と。風来坊の性格ゆえ、そうではない、優しくされたのでちょっと寄ってみただけだ、あなたの母親でさえ私に優しくしてくれたという直子に、あなたは「父を愛していたと言って欲しい」と訴えます。自分の家庭を壊した理由は、「愛」であると信じたいのです。逆を言えば、あなたにとって、家族よりも優先されるものは利己的な「愛」であり、「愛」だけが家族が壊されても仕方がない唯一の理由なのです。早くに家族を奪われ、他に信ずるものが無いあなたの訴えは、とても悲痛なものに響きました。

あなたは智の子供を身ごもります。愛しているからではなく、お互いの寂しさを埋める性交の結果です。最後のカットで、彼があなたのもとを去っていくのか、戻ってくるのかは定かではありませんが、その成り行きをあなたは微笑みを持って迎え入れます。あなたの視線の先にあるのは智の姿なのか、それとも立ち去った後のただ広がる風景なのか。あなたもまた将来自分の子供に、父親を愛していたのかと聞かれることでしょう。そのときあなたは何と答えるのか。答えは、その視線の先にありそうです。

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