臼田あさ美と「南瓜とマヨネーズ」
前略 臼田あさ美 様
昨日、冨永昌敬監督の「南瓜とマヨネーズ」を観てから私がずっと考えているのは、何故あなたが演じるツチダと、せいちゃん(太賀)のセックスシーンがこの映画で描かれていないのだろうか、ということです。ツチダは同棲中の恋人せいちゃんとの関係に行き詰まり、昔の想い人であるハギオ(オダギリジョー)と関係を持ったり、生活の為に安原(光石研)との援助交際に手を染めたりします。作品中、安原やハギオとの直接的な濡れ場が描かれているわけではありませんが、それと分かる演出がなされているのに対し、肝心の恋人、せいちゃんとはその気配すらありません。
その理由を考えるときに注目したいのは、この作品が一見すると若者たちの揺れ動く恋愛感情を描いているように見える裏で、「労働」に対する考察がなされている点です。ツチダはせいちゃんにミュージシャンとして成功して欲しいと願っていて、それまでの「労働」は自分の役割と任じており、せいちゃんには働かずに曲を書いていれば良いと言います。職場であるライブハウスの同僚とも、「彼氏に浮気されるくらいなら、働かないでいてくれた方がマシ」と話し合う。この時点ではツチダにとっての「労働」は生活する為の手段に過ぎません。
そしてその「労働」の一形態として、安原とのセックスにより金銭を得る。ここでは「労働」とセックスは等価です。次に援助交際で得た金銭を持ってハギオとの逢瀬に向かうのであり、無職風のハギオに金をせびられさえする。ここでも「労働」により得た金銭がセックスと等価交換されている。ツチダにとって「労働」とは常に何か他の価値に支払われるものなのです。
ラブストーリーに「労働」とは出来れば避けたい組み合わせですが、20代も半ばを過ぎて恋愛だけでは食べて行けない男女にとっては一種切実な問題です。「労働」に無縁だったせいちゃんも、昔のバンド仲間から指摘され、ツチダの望む曲作りを捨て野菜の卸やバーの手伝いをして日々の糧を得るようになる。あなたという女優の生真面目そうな表情がこの作品に良く似合っている理由は、この主題のシビアさにあるように思います。
せいちゃんとの関係においてツチダが「労働」の対価として求めているのは彼のミュージシャンとしての成功であり、「セックス」ではありません。作品の中でせいちゃんとのセックスシーンが描かれていないのは、ツチダにとって彼に求める重要度が高くないからでしょう。そして最終的に彼からもたらされるものは、ツチダに歌われるささやかな歌です。このとき、ツチダは「労働」の対価として自分が求めていたものが、せいちゃんの成功ではなく、彼が自分のために歌ってくれることだったと知るのです。この結末が、恋愛と労働を巡る世知辛いテーマを扱っているのに関わらず、最後にはファンタジーに近い愛らしい印象を残してくれます。