吉田羊と「ハナレイ・ベイ」
前略 吉田羊 様
私は村上春樹の作品では初期の「僕」を主人公とした小説が好きな人間なので、その後作品世界を広げていった村上春樹の良い読者とは言えないと思いますが、それでも長編、短編含めおおよそ読んでいます。「東京奇譚集」も出版時に面白く読んだ記憶があり、その中に収められた印象的な短編「ハナレイ・ベイ」を映画化したのが本作です。
夜明け前、日本人の青年(佐野玲於)がイギー・ポップの「パッセンジャー」をウォークマンで聴きながらハナレイ・ベイにやって来て、サーフィンをする場面から映画は始まります。その後、青年は鮫に襲われ、母親であるサチ(吉田羊)が遺体を引き取りにハワイにやって来る。サチはその後も毎年ハナレイ・ベイを訪れ、そこでの現地民や日本人青年、高橋(村上虹郎)との交流、息子や死別した夫との回想が淡々と綴られていきます。
今回、映画を観た後で本棚から原作を引っ張り出して再読しました。原作がサチの自立した女性としてのハードボイルドなキャラクターやライフスタイルにフォーカスされているのに比べ、映画は息子や夫、日本人青年といったサチの周辺の人物との関係が満遍なく語られており、特に息子や夫との回想はやや蛇足のような印象も持ちます。短編小説を映画化するのにやむを得ない水増し、と言ったところでしょうか。
しかし、あなたが演じるサチに関して言えば、そのクールさ、近寄りがたさ、生きる上での矜持を持った女性と言った原作の性格付けや印象が極めて的確に演じられていて、再読してもこれは吉田羊以外の女優では考えられないと感じました。村上春樹の作品には自立したキャリアを積んだ女性がよく登場しますが、そのイメージと吉田羊のクールでミステリアスで芯の通った印象がよく似合っています。抽象度の高い村上作品のキャラクターが吉田羊という女優を通して血肉化されているのです。
映画では、原作には無いちょっと変なシーンがあります。「サーフィンやってみようかな」と呟いたあなたに、高橋は仲間たちと一緒にブルーシートを波に見立て、スケートボードにあなたを誘います。あなたは怖々スケートボードに乗り、子供のような笑顔を見せます。クールなイメージの女優が最も輝くのは、こういうギャップのある表情を見せるときです。
「トイレのピエタ」(2015年)で新鮮なタッチを見せた松永大司監督が村上春樹の作品世界をこだわりをもって映像化したこの映画は、同時に吉田羊という比較的映画の主演で観ることの少なかった女優の魅力を改めてプレゼンテーションしています。