前田敦子と「旅のおわり世界のはじまり」

前略 前田敦子 様

黒沢清監督の新作「旅のおわり世界のはじまり」を観ました。この作品はウズベキスタン政府の依頼に拠って制作されたものとのことで、全編にわたりかの国でロケーション撮影が行われています。主演は前田敦子。「Seventh Code(14年)」「散歩する侵略者(17年)」に続いての黒沢映画出演です。

作品は黒沢監督のオリジナル脚本で、ウズベキスタンでの撮影という前提から構想されたらしく、前田敦子演じるバラエティ番組のレポーター葉子が未知の土地でテレビ仕事に取り組みながら孤独に苛まれ、自分のやりたい仕事とのギャップに悩みながらも、幾つかのささやかな変化を経て、いつしか解放されていくといった物語です。前田敦子の役柄はまるで「世界の果てまでイッテQ!」のイモトアヤコのようですが、パンフレットによると黒沢監督は番組のファンらしく、大いにインスピレーションとなったことは間違いありません。ジャージ姿まで一緒です。

黒沢監督が前田敦子の女優としての才能を高く評価していることは今までのインタビューや起用実績からも明らかですし、今作は同じく海外ロケで彼女を主演に迎えた短編映画「Seventh Code」の拡大版のような印象もあります。黒沢監督はジャンル映画への拘りが強く女性の演出が突出しているという印象は無いかも知れませんが、その一般映画第一作の「ドレミファ娘の血は騒ぐ(85年)」以来、洞口依子とのコラボレーションが知られていますし、より広範なジャンルの映画作りを始めるきっかけとなった「トウキョウソナタ(08年)」以降は、家族としての、または愛の対象としての女性を描く割合がより増していったように思います。

今作を評して、これは黒沢清の女性映画だという意見に反対はしませんが、それにしては奇妙な印象を観客に与えます。冒頭、どこか地元の家を借りて収録の準備をする葉子。カメラは、その後ろ姿と鏡に映った口紅を塗る彼女の口元を捉えます。外に出ると既にロケ隊は出発した後。現地語をまくしたてる素性の分からぬ男に促されるままバイクに乗せられ、荒れ地の一本道を走るその後ろ姿が捉えられます。また、ロケが終わり一人バザールに向かった葉子は言葉も分からず、不安なままに段々暮れていく街を彷徨う。その後ろ姿をカメラは追います。その後も、異教の地を彷徨い、窮地に陥る葉子の姿が描かれ、その後ろ姿をカメラが追う。正確な比較をした訳ではありませんが、ほぼ女優一人が主人公の映画でここまで後ろ姿ばかりの映画は珍しいのではないでしょうか。勿論、ロケの制約からラフにドキュメンタリータッチに女優の姿を捉えたため必然的に後ろ姿が多くなったという事情もあるのでしょうが、それ以上に黒沢監督の狙いは前田敦子の表情を捉える、ということよりも異国に放り出された頼りな気な女性の佇まいを、その後ろ姿や細い足元に託したように思えます。前田敦子に強いる様々な困難は幾らかサディスティックに思えるし、成熟した女性というよりも、(ウズベキスタン人が彼女はまだ子供だろう、と主張し続けたように)儚げな子供のように映ります。その為、所謂女性性や、女優の演技、表情に焦点を当てた過去の巨匠たちの女性映画とはまた違った印象を与える作品になっています。

突然訪れる東京湾の火災の映像は、私にはオリヴェイラの「永遠の語らい(04年)」の呆気にとられるようなカタストロフやキェシロフスキの「トリコロール/赤の愛(94年)」のラストの災厄を思わせます。そこには黒沢監督の国境を越えた映画作家としての資質を見る思いがします。世界が私たちに強引にアクセスしてくる暴力性。個人の暮らしや葛藤とは別のところで起こる、「世界のおわり」。映画の最後に、葉子は世界の果てを思わせるウズベキスタンの山頂で「愛の賛歌」を歌います。彼女の世界をはじめるために。世界が終わる予感はあちこちに満ちている。だけれども、私たち一人一人は明日も生きて行かなくてはいけない。 世界は終わるかもしれないが、私たちはいつでも、私たちの意思で世界をはじめることが出来る。 前田敦子の後ろ姿を追い続けたカメラは、最後に彼女が歌う表情をアップで捉え、映画は終わります。

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