蒼井優と「宮本から君へ」

池松壮亮演じる宮本浩は、「持たざる者」として画面に登場します。宮本はコミュニケーション能力に乏しく、金も無く、女性にモテる要素が無い。持てる者とは裕二(井浦新)であり派手な女性関係を持つ、中野靖子(蒼井優)の元カレ。宮本は貧相な体格で喧嘩に強くない。持てる者とは巨漢のラグビー選手拓馬(一ノ瀬ワタル)であり、宮本は勝ち目の無い戦いを彼に挑むことになる。

原作は20年以上前に描かれた漫画ですが、この映画の「持たざる者」の戦いというテーマはとても今日的な問題を反映しているように思います。まず、良識的な観客は、そもそも宮本の決着の付け方に異議を唱えるでしょう。自分の恋人がレイプされるという耐え難い状況にあるのはわかるが、法的手段を一切検討することなく暴力のみに訴えるというのは、問題解決の在り方として間違っているのではないか。 あまりに直情的ではないか。 これだけ部屋の中で、道路の真ん中でわめき散らし血まみれになり、周囲の住民が放っておくわけはないのではないか。

しかし、江戸時代で言えば「仇討ち」のような、暴力による私的な制裁は、公的な裁きの有効性が著しく低下してきている今の日本では、映画中でだけ許される決着とはいえ、やむなき選択のようにも思えるのです。私たちは10年前であれば即刻刑務所行きになってもおかしくないような、友人に私的な便宜を図る政治家や、ジャーナリストを名乗るレイプ犯、過失致死運転により幸福な家庭を破壊する元官僚、未曽有の原発事故を予見していた電力会社幹部、差別的な発言を繰り返す議員などが、一切の裁きを受けずに今も涼しい顔で社会で暮らしているのを知っています。 タガが外れてしまったとしか思えない モラルの著しく低下した今の社会で、司法さえ信頼できず「上級国民」のような信じがたい流行語が生まれる状況のなかで、「持たざる者」が一矢報いるには自らの手で落とし前を着けるしか無いのではないか。特に「俺、法律かじってるんで」などと平然と言い放つ拓馬のような小ずるい人間を相手にしたときには。 このような私的制裁がリアリティを帯びる日が来るとは思ってもいませんでしたが、今、時代は確かに「宮本の側」にあるように思います。

また、この映画で宮本が裕二と争うアパートや、拓馬を待ち伏せし壮絶な死闘を繰り広げるマンションには、きっと他の住民がいるに違いなく、この怒声に耳をふさぎ無関心を装っている。画面には映らない、そのようなご近所の息をひそめた様は宮本の戦いをますます切羽詰まったものに追い詰めていきます。 拓馬との死闘を制した宮本に、中野靖子は誰がこのような制裁を頼んだのか、お前は自分のちっぽけなプライドを守りたいだけではないかとなじられます。それに対し、宮本は「世界を全て敵に回しても構わない。靖子、愛するお前でさえ、俺にとっては敵なのだ」と答える。全く理屈が通っていないのですが、「持てる者」の勝利宣言が「スカーフェイス(83年)」のトニー・モンタナにとっての「ザ・ワールド・イズ・ユアーズ」であるように、「持たざる者」宮本浩のそれは「世界を全て敵に回しても」なのです。 何せ、彼には何も無いのですから。

この宮本浩を信じがたい熱量で演じきった池松壮亮は彼のキャリアでも最高の作と言えるでしょうが、宮本と愛と憎しみのバトルを繰り広げる恋人である中野靖子を演じた蒼井優にとっても、重要な作品になるのではないでしょうか。捨て身で性交シーンに応じ、泣き、叫び宮本の不実や身勝手さを糾弾する。「オーバーフェンス(16年)」や「彼女がその名を知らない鳥たち(17年)」でも感情を爆発させるシーンが多かったように記憶していますが、それらに比べてもひりひりとした感情がほとばしる演技です。

監督は「ディストラクションベイビーズ(16年)」でも激烈な暴力描写を見せた真利子哲也監督。激情に流されてしまいがちなストーリーを、時制を巧みに操ることで全体として破綻することなく高度なエンターテイメントとして成立させています。特に非常階段での命懸けの格闘シーンは、日本映画史上に残るアクションシーン(スタントなし、というのは本当でしょうか?)だし、池松壮亮が見せる顔つきがまるで東映実録ものの役者のような殺気をはらんでいく様も見事です。映画は時として図らずも時代にシンクロするものですが、この作品もまた「持たざる者」の捨て身の戦法として時代の空気を反映しているように思います。

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