片岡礼子と「楽園」

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映画の冒頭、黒沢あすか演じる中島洋子と、その息子中村豪士(綾野剛)が露店での商売に地元のヤクザから因縁を付けられる場面でラジオから流れるニュースは北朝鮮拉致被害者曽我ひとみさんの夫、チャールズ・ジェンキンス氏来日の報であったように記憶しています。かつては「楽園」と呼ばれた北朝鮮から逃れてきた脱走兵にして日本人拉致被害者と結婚し、日本へ亡命した数奇な運命の持ち主。限界集落を舞台に繰り広げられる、絶望の物語を始めるのに相応しい挿話です。

物語は、過疎の集落を舞台に、Y字路で起こった少女の失踪事件をきっかけに容疑者と疑われる豪士と、失踪する直前まで少女と一緒にいたことで罪の意識に苦しみ続ける娘・湯川紡(杉咲花)、養蜂を営もうと集落に戻り、村民からやがて苛烈な村八分を受ける田中善次郎(佐藤浩市)を主な登場人物とした群像劇です。豪士と善次郎に共通しているのは行政からも見捨てられた集落で、更にその中でも因習に拘りよそ者への差別を続ける住民の生贄であることです。失踪した少女の祖父藤木五郎(柄本明が熱演しています)は、孫娘失踪の犯人と疑われる豪士を知る紡に、「あいつ(豪士)が犯人だと言ってくれ」と迫ります。そこには、真実よりも自分の魂を鎮める為の生贄を求める利己的な人間の姿が露わになっており、映画のサブタイトルとして挿入される「罪」「罰」「人」が炙り出されて行きます。

タイトルにある「楽園」とは何か。豪士にとってそれは子供の頃海外から連れ帰られ、よそ者への差別の激しい村落にあって、唯一優しさを見せた少女ですが、それは既に失われています。善次郎にとっては病気で亡くなった妻(石橋静河)の優しさであり、この集落を「楽園」と信じてUターンして来たのですが、それもまた失われています。彼らにとって「楽園」とは既に失われたものであり、血縁から切り離されているのにも関わらず、「地縁」により縛り付けられた集落には絶望しか残っていない。それは東京に逃げ出そうとしてまた集落に戻って来ざるを得ない紡にとっても同じことです。

この作品は吉田修一の短編2作を原作として作られたからか、同じ集落で起きる事件や登場人物たちの関わりが物語として交差することが無いため、群像劇として渓流がやがて大河になるようなカタルシスに乏しい面もあるのですが、交差しないがゆえのそれぞれの人物の孤独が際立っており、この作品を特徴づけているように感じます。妻を亡くし、一人養蜂を営む善次郎に想いを寄せる、集落の未亡人黒塚久子(片岡礼子)は物語の孤独を更に色濃く反映しています。久子は善次郎を温泉に誘い、脱衣場で自分の老いを感じさせる裸身をチェックする。混浴の浴場で善次郎に身体を求められるが、善次郎の深い絶望に飲み込まれ、互いを受け入れることが遂に出来ない。映画は凄惨な悲劇を迎えるわけですが、そこでもただ立ち尽くすしかない、これからもこの集落で生きて行くしかない久子の姿を、片岡礼子が慎ましく演じています。 ある者は死に、ある者は生き続ける。本当の地獄は、それでも生き続けなくてはならない者の側にあるのかも知れません。

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