アイスリング・フランシオシと「ナイチンゲール」
前略 アイスリング・フランシオシ 様
イギリスの流刑地として囚人や看守が入植してまもない 、19世紀のオーストラリア、タスマニア 。軽微な罪で流刑の身となったアイルランド出身のクレア(アイスリング・フランシオシ)はその美しい歌声で軍の慰安をしている。この土地は英国軍将校ホーキンス(サム・クラフリン)が監督をしており、クレアは夫も子供もありながらホーキンスに逆らうことが出来ず囲われている。クレアの刑期が終わっても解放されないことに怒った夫のエイデン(マイケル・シェズビー)がホーキンスに談判に行くが、クレアは夫の目の前でホーキンスとその部下たちに犯され、夫も子供も惨殺されてしまう。昇進を直訴するためにローンセストンに向かうホーキンスたちを追うため、アボリジニの道案内ビリー(バイカリ・ガナンバル)を伴い、クレアは未開の地に乗り出し復讐の旅に出る。
このような差別と支配、復讐の物語は私たちが何度も西部劇で観てきたものです。最近でもスコット・クーパー監督の「荒野の誓い(2017年)」がありました。19世紀初頭にはアメリカではネイティヴアメリカンへの迫害が始まっており、その土地を奪っていましたが、南半球でも同様にイギリス人がアボリジニを虐殺していたという事実をベースとしたこの作品は、単に土地を替えた西部劇というユニークさを越え、西欧の覇権主義がもたらす民族の悲劇が、空間を越え同時多発的に起こっていたのだという事実を私たちに告げています。この作品には何度も、主人公たちが見上げる木々の間から見える空、月夜のカットが挿入されます。主人公のクレアにとってその空は故郷アイルランドに繋がっていますが、映画を観続けている観客の私たちにとっては、同時にアメリカの、ネイティヴアメリカンの住む西部開拓の空にも繋がっているのだと思わずにはいられません。
また、この作品は差別と被虐者の関係も重層的に描かれています。主人公クレアは白人女性ではあるけれども罪を背負ってタスマニアに流刑された身であり、イギリスの植民地であるアイルランド人として登場します。当然、流刑地を監督するイギリス人将校ホーキンスから迫害され、勿論、男性から女性への性の搾取がある。そのホーキンスもまた軍の階級の中で弱い立場であり、その鬱屈を流刑者たちへの暴力で晴らしているのであり、昇進のためローンセストンへの旅へと駆り立てるのです。また、クレアが雇う道案内のビリーはアボリジニであり、彼から見るとクレアのような白人こそが差別する側であり、クレアも最初は露骨に彼を差別している。差別する側、される側が協働して更に差別する者を追う。ときにはビリーはホーキンスに対し、クレアを売女と罵り協働関係を否定して見せ、ときにはクレアは白人たちの前でビリーに銃を向け、この黒人を処刑するために町に向かっているのだ、とお互い窮地を逃れる為に差別の構造を利用します。差別に抑圧されるばかりではなく、ときには公的な差別意識を利用して旅を続けるしたたかさが、この作品に強靭な印象を与えています。
~以下、ネタバレを含みます~
物語は、いよいよクレアとビリーがホーキンスを追い詰めた時に、思わぬ展開を迎えます。クレアは宿敵を目にしたときに、自分にはとても出来ない、と逃げ出してしまうのです。それまでの空腹と緊張に強いられ未開の森を彷徨う旅でクレアは極限まで消耗しているのであり、血飛沫を浴びてホーキンスの部下をナイフで惨殺する直前での場面の悲惨さが、人を殺すことがいかに人を消耗させるのかを示しています。復讐のカタルシスを得ることは無く、一転クレアとビリーは敗走することになるのです。クレアが何故ホーキンスを銃撃することさえ出来なかったのか、映画でははっきりと説明されていません。殺戮の旅の果ての徒労感なのか、殺す価値さえ無いと思ったのか。 しかし、貞淑な妻の姿から激情に突き動かされる復讐の女、血しぶきを浴びながら動揺を隠せない弱さなどをアイスリング・フランシオシが繊細に演じることでこの過酷な旅がクレアを大きく変えていったことを観客は了解しています。
復讐は、思わぬ形で果たされます。ローンセストンで光り輝く軍服に身を包み、ベクスリー大佐の歓待を受けるホーキンスの前に現れたクレアは、ホーキンスの行状を訴え、失った恋人を想うアイルランド民謡を歌い始めます。その眼には既に憎しみは無く、悲しみと憐れみを湛えています。その後にビリーによるホーキンス一派の殺害シーンも用意されていますが、実質的なクレアの復讐はこれで終わるのです。 銃により果たされるべき復讐が一つの歌声に代わること。それは単なる殺人を否定するヒューマニズムから来るのではなく、この旅を通してアボリジニたちの声を聴き、迫害された者、殺された者の無念さに苛まれながら生きることの方が地獄であることを知ったからかもしれません。寝床で夫に微笑むクレアのアップで始まり、凄惨な旅を通して確かに心が繋がったアボリジニの友と共に水平線から昇る太陽を見つめるアップで終わるこの作品は、差別と抑圧の時代にあり「わたしは誰のものでもない」と叫ぶに至る一人の女性の苛烈な物語なのです。