土村芳と「本気のしるし劇場版」

 

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前略 土村芳 様

この作品を観る丁度一週間前に「花束みたいな恋をした」を鑑賞しました。男女の恋愛感情を題材とした作品として、現代日本映画を代表する二作品と言えそうですが、その印象は随分と違います。「花束みたいな恋をした」は若い男女を主人公としているからという理由だけではなく、その感情の率直さから「恋愛映画」「ラブストーリー」とカテゴライズされるのに対し、この「本気のしるし」は、「恋愛映画」と呼ぶには少々不穏すぎるように思われます。「ラブサスペンス」の方が相応しい?とは言え誰も死にもしないし犯罪に巻き込まれもしない。映画をカテゴライズすることにさして意味は無いかも知れませんが、「メロドラマ」と呼ぶのが最もふさわしいように思えます。「メロドラマ」の定義は様々ですが、例えば社会的に禁じられていたり、三角関係による被害者意識が肥大化したり、どうしても別れることが出来なかったり、当事者たちの幸福が限りなく不幸に接近する”緊迫”にその本質があるようです。

この映画で、浮世(土村芳)は、平凡な佇まいながら出会う男を虜にし、不幸へ陥れずにはいられない女性として現れます。本人に悪意無く、というのがこの手の女性のタチの悪いところですが、無防備にノースリーブのワンピースを纏い、主人公である辻一路(森崎ウイン)を巻き込み、いつの間にか後戻りできない地点まで追い詰めていきます。浮世はまるで恋愛の為にのみ生きているかのような女性です。

このような恋愛装置としての女性を演じた女優として、増村保造とコンビを組み「愛に生き愛に狂う女」を演じ続けた若尾文子が思い浮かびます。「妻は告白する」「夫が見た」「清作の妻」「濡れた二人」等々。生活など放り出して、恋愛のことしか考えず、恋愛の為にのみ行動する女性。この作品での土村芳もまた特に仕事をするわけでもなく、一路や元夫や元カレの間を漂いながら、「放っておけない」存在感を放ち続けます。その不穏さは、 この映画にメロドラマに不可欠な緊迫感を与えており、土村芳は若尾文子的な抽象度の高い恋愛装置に最も接近し得た女優と言えるのではないでしょうか。

一路が浮世を追い、浮世が一路から逃げる前半での関係は、やがて逆転し、後半では浮世が一路を追い求めます。曖昧として主体性が無いように見えた浮世が、やがてはっきりとした意思を持ち一路を追い、活き活きと輝き始める。その逆に「俺は地獄に落ちますかねぇ」とヤクザの脇田真一(北村有起哉)に呟いた一路は、浮世と出会ったことで確かに地獄に落ちることになり、浮世から逃げ隠れ、やがては幽霊のような存在となります。横たわる幽霊としての存在が前半の浮世から後半の一路へ逆転していることも指摘出来そうです。

最後に、浮世は一路を捕獲し、抱きしめる。そして、極めて普遍的かつ抽象的な、あの言葉を呟きます。「愛している」と。 恋愛装置としての責務を成就した証として、土村芳演じる浮世にとってこれ以上相応しい言葉も無いでしょう。

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