有村架純と「花束みたいな恋をした」

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前略 有村架純 様

恋愛は(主に)男女双方で成り立っているのだし、映画だって男女両方が観るのだから、恋愛映画は男女双方の視点で描かれていないとおかしいではないか。坂本裕二の脚本による「花束みたいな恋をした」は、一つの恋愛物語を男女両方の視点で平等に描こうとする、いわばフェアプレイの精神による恋愛映画です。

冒頭からして、恋人たちがよくやるような一つのイヤフォンを二人でシェアする行為に対し、音楽はLとRの両方があって初めて成立するのだ、一方のみ聴くのでは音楽ではないという趣旨でフェアプレイの精神が宣言され、その後も主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)の双方のエピソードがほぼ交互に、平等に示されていきます。映画自体が二人を均等に描こうとするのと同様に、二人もフェアプレイの精神で恋愛を進めようとします。付き合い始めるときに、「最初に言っておきますが、私は白いズボンを履く男性はちょっと・・。そちらも苦手なことがあれば最初に言ってください」とルールを説明。また、音楽も小説も、お互い好きなものが同質であることを確認します。

男女を平等な視点で描く映画の基本方針は、とりもなおさず観客と同じ目線、いわゆる自然体で若い男女を描くことであり、坂本裕二による今のカルチャーの固有名詞に満ちた台詞がそれを体現しています。その台詞の端々や、もう一歩踏み込めない恋愛感情には時代のリアルが反映されていると思いますが、一方で物語の枠組みはとても抽象的で、周到な印象を与えます。例えばデプレシャンやアサイヤスやガレルに代表されるフランスの恋愛映画のように、主人公の行動が映画の行方を規定し、次に何が起こるのかを観客が一緒に見守るような映画というより、まるで現代の若者の恋愛事情を企画書にしてプレゼンテーションを受けているような印象を持ちます。グーグルマップに写りこんだ顔にモザイクを掛けられた「わたくし」や、恋愛の始まりと終わりの舞台となるファミレスというどこにでもある場の抽象性には、リアルな若者の反映というよりは若者を平準化しようとする意思を感じます。

現代の若者の恋愛の、抽象化されたショーケースとしての映画。だから、この映画には常に「そうではないのではないか」という反論に応える為の「代案」が用意されています。「自分の好きなことを仕事にして食べていくことは出来ないのか?」という若者なら誰もが抱えるテーマに対し、一方ではミュージシャンとして成功するファミレスのお姉さんが提示され、他方では認められず自死を選ぶカメラマンの先輩の姿が示されます。麦がやりたい仕事であるイラストの仕事は、3カット1000円という値付けをされ、せっかくの絹との同棲生活に冷や水を浴びせられます。一方で、麦は生活の為に就いた物流会社で意外にもやりがいを感じ始める。「人間到る処青山あり」です。そして、かつては好きだった小説や芝居を忘れ、生活の世知辛さに追われる麦から、絹の心は離れていく。そこで麦が絹に切り出す「代案」が結婚です。

男性は外で働き、女性は家にいて、その間好きなことをやっていれば良いではないかという麦の結婚観はかなり古臭く、現在では受け入れられないように思いますが、その通りになり絹の心はますます離れていくことになります。「結婚」のもう一つの選択肢はもちろん「別離」であり、二人は別れることになるわけですが、有村架純と菅田将暉という当代きっての人気俳優がファミレスでの別離のシーンを真摯に演じており、観客の涙を誘います。企画書的な現代若者の恋愛ショーケースなどと揶揄しましたが、この二人の演技には真実味があり、技巧的な上手さが際立つ菅田将暉に対し、平凡な女性をあくまで普通に演じ通した有村架純の実直さがこの映画をチャーミングなものにしています。監督は土井裕泰。「ビリギャル(2015年)」や「麒麟の翼(2012年)」等の企画ものも上手くまとめ、昨年の「罪の声(2020年)」でも登場人物が本音を語り合うちょっとしたシーンで感情過多になり過ぎないセンスの良さを感じさせました。

とても注意深く、普通の男女の恋愛を描いた映画。終電に乗り遅れて、近くの居酒屋に行く。朝までカラオケで始発まで時間をつぶす。そんな男女の普通の出会いが、コロナ禍ではまるで遠いSFの世界の出来事のように感じるのが、皮肉でもあります。

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