嵐莉菜と「マイスモールランド」





映画を通して社会を知るという経験は特別なことではなく、特に海外の作品を観ていると様々な問題をフィクションのかたちであれ知ることがあります。日本映画は比較的そのような作品が少ないように感じますが、「映画は世界の窓」でもあるわけですから、目を凝らしているとエンターテイメント作品であっても現代的なテーマが見えてくることが多々あります。映画は時代性と分かちがたく結びついているアートフォームですので、優れた作品は常に現代を写し取っているものです。

この「マイスモールランド」という作品は、もっと直截的に現代日本の一つの様相、すなわち難民に対する不寛容さを描いています。スリランカのウィシュマさんが入国管理局に長期にわたり拘留され命を落としたニュースに、不誠実な日本の実態を突きつけられて暗澹たる思いをしたのは私だけではないと思います。「マイスモールランド」は恐らくこのウィシュマさんの問題が明るみになる前から企画されていたのだろうと思いますが、ここでは中東の国土を持たないクルド人の難民受け入れについての問題に焦点を当てています。このように問題が顕在化するタイミングで共鳴する作品を作るのは映画作家の優れた嗅覚であろうと思います。

映画は埼玉県にある公園で、民族衣装をまとったクルド人たちが婚礼の宴を賑やかに行っている場面から始まります。民族や国家を描くときに婚礼(もしくは葬式)のような儀式を描くということは映画の常套句とも言えるもので、こういうシーンをしっかり描けている映画は良作の予感がするものです。この結婚式に集まったなかでも一際目を引く美しい少女が今作の主人公のサーリャ。自身も5か国のルーツを持つという嵐莉菜が演じています。

物語はクルド人が多く集まるコミュニティの中で慎ましく暮らすサーリャ一家を中心に、難民申請が下りずに働くことも県を跨いで移動することも出来ない移民の苦難が描かれて行きます。やがて父親は不法就労の罪で入国管理局に拘留され、サーリャはビザを持たないため進学も出来ず、就労も出来ず、妹と弟を養うためにいわゆるパパ活に手を出さざるを得ない。静かな筆致ながら国土を持たないクルド難民の厳しい立場と理解を示さない(それ以前にこの問題があること自体を国民が知らない)日本という国の理不尽なまでの不寛容さが描かれていきます。サーリャと心を通わせる少年聡太を演じるのは「MOTHER マザー(20年)」で非凡な存在感を見せた奥平大兼。

監督の川和田恵真自身もハーフとのことで、日本の中でのアイデンティティの問題は自身にとっても切実なテーマなのでしょう。しっかりと現代日本と響き合うテーマ設定も、作者の切実さもこの作品の原動力となっているのだと感じます。明確なテーマ性と真摯な作品づくり。加えて名手・四宮秀俊の撮影。ただ、だからと言って作品が胸を打つのかと言えばそうではないところが、映画の難しさだと思います。

例えば、主役の嵐莉菜。演技自体は特段上手くも下手でもないと思うし、美しいルックスで今後も活躍するだろうとは思いますが、苛烈な状況に置かれた少女としての存在感が弱いように感じました。激情を見せるような演出をしていないので線が細いように感じる、ということもあるかも知れません。これは彼女の問題というより、作品を上手くまとめようとし過ぎて、彼女の表情を引き出すことに今一つ粘り切れていないのではないかと感じます。

また、終盤、心配した聡太がサーリャのアパートを訪ねてくるシーン。玄関で二人のやりとりが一通り終わった後に、部屋から出て来た妹が、弟が帰ってきていないと慌てふためいて言い出します。狭いアパートの一室での作劇としては唐突感が否めず不自然で、この後の展開がいかにも作り物めいて見えます。このような細部が、もう少し丁寧に描けないものかと感じました。

決して悪い作品ではありません。しかしながら、同じように海外からの移民に不寛容な現代日本の姿を描いた藤元明緒監督の「海辺の彼女たち(20年)」と比べると、その問題提起の切迫感、フィクションでありながらリアルな手触りといった点でかなり隔たりがあると感じます。脚本が、問題発生とそれに起因して起こる事柄をほぼ順番にチャート式に描いている印象があり、そこに観客を打ちのめすような強い感情が感じられない。映画として上手くまとめる必要は無いから、物語をソツなく進めることに腐心しなくても良いから、映画の叫びを聴き届けたいと思うのです。

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