西野七瀬と「恋は光」
岡山のとある大学で、一人の男と三人の女が「恋の定義」について議論を重ねる。男には、恋をしている女性の周りが光って見えるらしい。コロナ禍で誰もが苦しみ、ウクライナでは悲惨な戦争が起きているこの時代に、不謹慎に感じるほど他愛もない物語です。角川映画の大林宣彦の現代版のようでもあるし、ホン・サンスの日本版のようにも見える。西条(神尾楓珠)と北代(西野七瀬)が川辺で並んで釣竿を垂れているシーンを見れば誰だって小津安二郎を思い出すし、北代と東雲(平祐奈)、宿木(馬場ふみか)の三人がパジャマパーティと称して日本家屋で語り合うシーンは、「麦秋」で原節子と淡島千景と井川邦子がからかい合う「他愛もない」シーンを思わせなくもない。そのように、色々と過去の映画を思い出させながらも、小林啓一監督の「恋は光」はどれにも似ていないユニークな作品に仕上がっています。その他愛のなさは一種アナーキーな領域にまで達しており、閉塞しきった現代に対する闘争宣言のようでもあります。「海の向こうの戦争より重要なもの」。これも「恋の定義」かもしれません。
この作品の「恋の定義」を巡る考察は、最後には自分の本心を知ることに帰結します。登場人物たちは、意識的、無意識に関わらず、自分の本心を隠しています。西条の文語調の話し方は他者を拒絶し自身を守るために張り巡らされたバリアのようだし、北代は西条を「先生」と呼び恋愛感情を隠している。東雲は生身の人間ではなく文学作品から「恋の定義」を試みます。彼女が大学から遠く離れた土地で暮らしていることも、彼女が「周辺の存在」であることを象徴しています。そのような「核心」を避ける登場人物の中で、宿木は唯一自分の本心に忠実な存在であり、観客と同様の目線で三人を監視する役割です。この作品が宿木のエピソードで始まり、宿木のカットで終わることは、端的に彼女の存在がこの作品世界の入り口と出口であることを示しています。
北代を演じる西野七瀬は主人公にとっての「友だち以上恋人未満」の存在を魅力的に演じています。どこか心細げだった「あさひなぐ(17年)」よりも、あまり西野七瀬が演じる必然性が感じられなかった昨年の「孤狼の血 LEVEL2(21年)」よりもずっと良い。私は特段彼女のファンではありませんが、さりげなくファッショナブルな衣装も含めて、演技の巧拙とは関係なく、観ているだけで楽しい女優でした。そんな女優は案外今の日本映画では少なく、稀有な存在感があるのかも知れません。